《百人一首》汇集了日本王朝文化七百年的100首名歌,是最广为流传的和歌集。熟读百人一首,更能了解日本文化哦。一起来了解日本人对美、自然、爱情的感悟吧。
『古今集』羇旅・407
上の句:わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
上の句読み:わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
下の句:人には告げよ 海人のつり舟
下の句読み:ひとにはつげよ あまのつりぶね
作者/歌人名:参議篁(さんぎたかむら)
■現代語訳
広い海を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったよ、と都にいる人々には告げてくれ、漁師の釣り船よ。
■ことば
【わたの原】広い大海原、という意味です。
(一望无际的大海。)
【八十島(やそしま)かけて】「八十(やそ)」は「たくさん」を意味する言葉です。また「かけ」は動詞「かく」の連用形で「目指して」という意味になります。
(“八十”表示“多”。「かく」指:以……为目标。)
【漕(こ)ぎ出でぬと】「ぬ」は完了の助動詞で「漕ぎ出したよ」という意味になります。
(开始划船。)
【人には告げよ 海人(あま)のつり舟】「人」とは、都にいる人々を指します。「海人(あま)」とは、「漁師」の意味で、「つり舟」を人間に見立てて呼びかける、擬人法を使っています。
(这里的“人”指居住在京都的人们。「海人(あま)」——渔夫。「つり舟」是拟人手法。暗指渔夫。)
■作者
参議篁(さんぎたかむら。802~852)
本名を小野篁(おののたかむら)といいます。834(承和元)年に遣唐使の副使に選ばれ、836(承和3)年に唐に向けて出発しましたが難破して帰国。837年の再出発の時に破損した船に乗せられそうになり喧嘩をしたため、当時の嵯峨天皇の怒りにふれ、2年間隠岐に流されました。後に文才を惜しまれ、都に戻され参議にまで出世しています。
■鑑賞
この歌は、作者紹介を見ていただければ分かるように、作者が隠岐へ流される時に作り、京の宮廷の人々に送った歌です。内実を知らずに読むと「大海原へこれから漕ぎ出すぞ」という勇気凛々とした冒険の歌かと勘違いするかもしれませんね。
しかし作者は流刑に処せられ、これから遠く寂しい離れ小島へ渡っていくわけです。そこには「遠い都の人々へ伝えてくれよ、漁師の釣り船よ」と船に語りかけながら旅立つ孤独な姿が見え、また悟りきったような寂しい背中が見えるようでもあります。波間に浮かぶ小さな舟の描写が、見事に作者の孤独を表しているようではありませんか。
隠岐諸島は現在の島根県の沖、日本海に浮かぶ島です。今は松江市まで車や電車で行き、そこからフェリーに乗ればすぐです。しかし当時は、難波(現在の大阪市)の港から船に乗り、瀬戸内海を廻って本州と九州の境にある関門海峡を通り、ぐるっと廻って隠岐まで連れて行かれたそうです。なぜそんな遠回りをしたのか不思議ですが、その悲しく長い旅路を想像すると、この歌を詠んだ作者の心の重さがずっしりと伝わってくるようですね。